羽生市


江戸時代から青縞で栄えた衣料の町

  羽生には利根川の水利と肥えた土地があったため古代から人が暮らしていました。 鎌倉時代には千葉氏の一族で羽生太郎を名乗る豪族がいたことから、 この頃すでに羽生の地名は確立していたようです。 また、 塚や古墳から出土する「埴輪」が「羽生」の語源と言われています。 羽生では古くから綿花の耕作が盛んに行われていました。 地場産業としては隣接する行田の足袋が有名ですが、 江戸時代になると羽生でも「紺」が盛んに生産され、 独特の「青縞」に人気が集まりました。 「青縞の市」が立ったことでも分かるよつに羽生は衣料の町として栄えはじめたのです。  明治以降は発展する東京の食を担う穀倉地帯として重要な役割を果たします。 おだやかな気候と豊かな大地を持つ関東平野では自然と産業が溶けあい、 人々の暮らしも順調に近代化されて行きました。 羽生では明治の中頃にはミシンが入り、 大正の終わり頃には電動ミシンがいち早く導入されるなど、 全国に先駆けて衣料を産業として構築しました。 昭和になるとその実績が実を結び、 衣料中心の総合工業都市として栄えました。  現在の羽生市は埼玉新都心に近い商工都市としてさらに発展するとともに、 自然と親しみながら生活できる住宅地として注目されています。 伝統と進取が調和した県北の中核都市として一層の発展に努力しています。


郷土が生んだ人

幕末・維新の偉人 清水 卯三郎

  世界を舞台に活躍した清水卯三郎は、 ひとつの肩書きでは紹介できない程のスケールで歴史に大きな功績を残した人物です。 1829(文政12)年3月4日に武州羽生村に誕生。 13歳の時、 商人見習いに出ますが17歳の頃には学問を志します。 29歳で勝海舟・緒方洪庵と知り合い、 世界観や語学に一層の磨きをかけます。 薩摩藩と英国が交戦した1863(文久3)年の薩英戦争では、 英国軍艦に通訳として乗艦。 のちに明治維新の偉人となる寺島宗則を救い、 また和平の斡旋に尽くしました。 1867(慶応3)年にはパリで開かれた万国博覧会に参加して日本の製品を紹介し、 特に水茶屋で着物姿の日本女性が人々を接待するというアイデアに人気が集まりました。 博覧会終了後、 欧米を経由してさらに見聞を広めた卯三郎は、 帰国すると東京日本橋石町で「瑞穂屋」を経営。 西洋書籍・活版印刷機・石版印刷機・陶器着色顔料・歯科器材などを販売します。 同時に家業であった薬種商も始めました。 1872(明治5)年には政府に「万国博覧会日本開催建白」を提出。 時期尚早として却下されますが、 それから98年後の昭和45年大阪万博まで万国博覧会は開催されませんでした。 卯三郎の見識は、 まさに100年進歩していたと言えるでしょう。 さて、 西洋の歯科医療器具類を日本に紹介したことも卯三郎の大きな功績です。 明治8年にはアメリカから最新の歯科器具を輸入し、 以後も積極的に輸入を続けました。 明治24年には「歯科雑誌」を創刊、 その後は歯科関連図書を多数刊行するなど歯科医療の近代化に貢献します。 1910(明治43)年に82歳で逝去し、 東京都浅草区松葉町(当時)の乗満寺に葬られましたが、 関東大震災で乗満寺は東京都世田谷区北鳥山に移転し、 卯三郎の墓も、 ともに移転しました。 後に無縁仏となり、 平成10年10月10日、 羽生市と、 当歯科医師会第2支部が中心となり、 卯三郎の墓を羽生市正光寺に開眼もどしを行い、 移転させました。 11月6日には、 開眼式並びに記念式典が盛大に行われました。(瑞穂屋卯三郎編・歯科専門書の資料43項掲載)


郷土の風物詩