行田市


古代のロマンと忍城のドラマが広がる歴史の地

  行田市は埼玉県の名称の発祥となった「埼玉(さきたま)古墳群」があることで知られています。 これらの古墳は公園や資料館となり大切に保存されており、 弥生時代など古代の暮らしを知る上での貴重な存在です。 古墳から出土した埴輪(はにわ)にちなんで、 行田は「はにわの里」とも呼ばれています。 1469〜86年の文明年間の初めには成田顕泰によって忍城が築城され、 戦国時代には難攻不落の城として幾度も戦いの場となりました。 江戸時代になると徳川幕府は中山道を守る城として忍藩十万石を与え、 城下町として栄えました。 江戸時代から明治時代にかけては足袋の生産地として隆盛を誇り、 現在でも全国の足袋の50%は行田で作られています。 行田市は埼玉新都心や東京への交通に恵まれ、 多くの産業が栄えると同時に、 住宅地としても脚光を浴びています。 古墳や史蹟にロマンを感じながら、 さわやかな自然とともに暮らせる街として今後も発展が期待されています。


郷土が生んだ人

わが国の法体系を確立した三権の長 林 頼三郎

  近代日本における法学の権威、 林頼三郎は明治11年9月6日に忍に生まれ百石町で育った郷土の偉人です。 父禮三は忍藩の御殿医の家柄。 若くして長崎・横浜で洋学を学び、 その後は教鞭を取りました。 やがて士族商法の失敗や水害に遭遇するなどで財を失い、 貧しい暮らしを余儀なくされました。 頼三郎は学業を終えると北埼玉郡役所で給仕となって家計を助けますが、 向学心と誠実さが郡長である林有章の目にとまり、 養子として迎えられます。 明治26年に上京。 現在の中央大学である中央法学院で特待生として学び、 卒業後は司法官試補、 区裁判所判事、 大審院検事、 大正9年には法学博士となりました。 その後も司法次官、 検事総長、 大審院長を歴任。 11年には廣田内閣で司法大臣となり、 貴族院議員に登りつめました。 昭和13年4月には中央大学学長に就任、 戦後の一時期は公職追放となりますが、 昭和27年には中央大学総長に復帰。 33年5月7日に79歳で亡くなりました。 昭和18年4月には旭日大綬章を受章。 著書に「刑法總論」「日本陪審法要義」があります。 多忙な中にも私学振興会会長、 埼玉県人会会長、 忍郷友会会長を務めるなど学問と郷土の振興に尽くした一生でした。 行田の水城公園にはその功績を讃え顕彰碑が建立されており、 故人が常に語った「平凡なことを非凡な努力をもって成す」という言葉が刻まれています。


郷土の風物詩